「あの人ってさ、自分にとってメリットがある人としか付き合わないじゃん。それがいやらしいなって思うの。私はそういうの嫌いだから、大勢の中で権力者みたいな人がいたら、みんなその人と仲良くしたがるけれど、そうじゃない、あぶれてしまった人の方へ歩み寄るようにしているの」
いつだったか忘れたし、誰が言ったのか、「わたし」と書いてみたものの、この人の性別すら覚えていないが、たぶん今年にこんな会話を聞いた。
その時自分がなんと相槌を打ったのかは覚えていないけれど、なんとなくこの会話が胸糞悪すぎて、記憶している。
一言で言えば、「圧倒的な違和感」を感じた。
ちょっとだけ気持ち悪いなとも思った。
でもそれがなぜなのか、その時はすぐに言語化出来なかったから、反論を展開することが出来なかった。それが猛烈に悔しかったのだと思う。
違うねん、お前が言ってること、なんか本質からすごくズレてんねん。
そのズレが言語化出来ないことがあまりにも悔しかったし気持ち悪くて、ずっと考え続けていたら、ふと謎が解けた。そしてそれは私自身の課題でもあったし、わたしがセッションをしてきた中で
「なんでこの人、才能もあるし性格も悪くないし、ビジネスの導線理論も分かっていて実行も出来るのに、ブレイクしないのかな?」と思う人に共通する話でもあったので今回思い切ってシェアしてみることにします。
偽善者は自分も他者も幸せにしない
バレているかもしれないが、私は人に対して好き嫌いが結構激しい。好き嫌いという言い方よりは「興味が持てるか持てないか」がハッキリしているといった方が適切だと思う。
興味がない人にはちゃんと興味がないように振舞って来たつもりだが、どうやらそれがちゃんと機能していなかったようで、「興味の無い人(嫌いな人)から好かれることが多く、またそれがとても疲れる」という高慢ちきな悩みを長年抱えていた。
先日、ある敏腕コーチが2人で「レジャー」と称してやっているセッションにクライアントとして参加しないかと誘っていただき、贅沢にも二人のコーチを使ってこの悩みをテーマにセッションをして頂いた。
どんなところが嫌いなのか、何が嫌なのか、そんなことをギャーギャー好き勝手にしゃべらせてもらっていたら、突然理解した。
「ああ、これ全部わたしが悪いですね」
「私が嫌いな人たちは悪くないです。全部わたしが悪い」
そんなことに気が付いた。
私は以前から会う人会う人によく言われることがあった。それは「愛が大きい」「エネルギーがデカい」というようなことを初対面の方からよく言われたりした。
セッションや撮影の時に、その人と対峙しただけで人が泣き出したり、今まで誰にも話したことがないという本人にとって重たいものであったり、秘めてきたことを、出会って15分以内に独白される経験も何度もあった。
でもそれをみんなが言う通り、「エネルギーがデカいから」とか「愛が大きいから」だとは思ったことが無かったし、そんなことを言われるような人間でもないと思っていた。セルフイメージの中の自分は決して愛もエネルギーも大きくなかったから。
なのでそう言われたり、そうやって私の前で涙を流す人がいたら「それはその人が優しいのだ」と思ってきた。独白を涙ながらに語る人が現れたら「こらえきれない程の苦しみの栓が今空いてしまったのだ。たまたま自分が目の前にいただけだ」
そう思ってきた。自分は作用していない。そう思ってきた。
だからそういう人たちが必ず言ってくれる
「あなたは愛が大きすぎる。それを与えてもらえてすごく嬉しいけれど、それを全ての人に平等にやってしまったら、あなたが枯渇する。それがとても心配だ」
という言葉にもいまいちピンと来なかった。でもこれは前職を辞める時に、同僚の店長のほぼ8割からも同じ言葉を頂いた。独立してからもよく言われた。
でもこれも、そう言ってくれる人に愛があるのだ。わたしはそんな大それたことはしていない、そう信じて疑わなかったし、なんならそんなことを言ってくれる感受性の強い優しい人たちに囲まれて、私は幸せだなぁくらいにしか思っていなかった。
そしてもう一つ、信条があった。
それは「全ての人間に才能と長所があり、それを自覚して生きることが素晴らしい」というものだ。
でも日本という国は、人の短所や欠点を指摘するのは得意だが、人の才能や長所にスポットライトを当てて、言語化して伝えて勇気付けをする意識が低い。そこに留学生ばりに「ホワイ!!?」を感じていたため、これが自分のミッションだと思い誰かれ構わず伝えまくってきた。
お互いの長所と才能を認め合い、伝えあう文化が出来れば、全ての人間が等身大の自他を受け入れ、その能力を喜んで社会に還元することが出来、生きる喜びに繋がるのだと信じてやまなかった。
だから伝えてきた。初見で感じたその人の素敵なところも、何度会話を重ねていても毎回感じているその人の良さも伝えてきた。あなたは素晴らしい人なのだと、どうか自信をもって認めて、その力を社会に役立てて、そして楽しく生きてくださいと、伝わるように表現の限りを尽くしてきた。
それを誰にでもやってきた。「誰にでも」というのは本当に「誰にでも」だ。出会った人すべてと言ってもいいかもしれない。そして全て本心からやってきた。
例えわたしが「興味を持てない人」だったとしても、その人にも素晴らしい才能も能力も長所もある。だから好き嫌い関係なしに、伝えてきた。
それがいけなかった。それがセッションで分かった。
私は誰かから嬉しい言葉をもらったら、その言葉を励みにして自分の糧に変えて生きていくタイプの人間だが、世の中が必ずしもそういう人たちばかりではないということを知らなかった。
中には一度もらえたその言葉が嬉しくて、何度でも際限なくその言葉を求めてくる人もいる。でも私からの言葉ではその人たちが満たされず、またすぐ乾くのも知っている。
その人たちが本当に認めて欲しい人は、多くの場合、母親だったり自分自身だったりするから、代役の私では物足りなくて何度でも言葉を求めてくる。
依存させてあげてもいいと、最初は思っていた。誰しも自立の前には依存が必要だというのは分かっているつもりだったので、その覚悟を持とうと思った。でも体力がついて行かなかった。あんなに沢山言われて来た「あなたの方が枯渇するよ」という忠告が現実になった。どんなに私が頑張っても、相手の承認欲求は満たされることなく、増え続けていくように見えた。そして過去の傷が癒えていく様子もなかった。
偽善だと知った。
依存される覚悟も無く、誰かれ構わず勇気づけをし、好かれて重たくて面倒見切れずに嫌いになるなんて、偽善もいいところだ。結局は誰にも嫌われたくないだけだったのだと気が付いた時、自分の汚さに、弱さに、心底嫌気がさしたのと同時にホッとした。変な言い回しだが、本当にホッとしたのだ。
「偽善者だね」
私の独白を聞いた一人のコーチがそう言った。この人はなんてすごい人だろうと思った。自分を責めたい時に「そんなこと無いよ」と反論されると、人は反省して終わることが出来なくなってしまう時がある。悔い改めるのチャンスを失い、罪悪感だけが残る場合がある。それを分かっていて、ちゃんと自分の醜さを認めたい私の気持ちをアシストしてくれた。今日ちゃんと自分と向き合って、明日からまた違う生き方を選べるように。
「偽善者だね」
そう言われて
「本当、救いようのない偽善者なんです」
そう言いながら笑った自分がいた。やっと辞められる、と思った。自分の悪癖を、やっと辞められる。自分の醜さを認めたら、人の汚さの底辺に足を着地したような妙な安心感があった。グラウンディングとは清濁すべて認めた状態で、初めて成立するのかも知れない。「どんな自分も自分」。言うは易しだが、言葉以上にハードなものだ。
今でも全ての人に才能と長所がある事を確信している。そしてそれらを活かし、社会に貢献しながら、自分の人生を楽しくする生き方は必ず全ての人が出来ると信じている。それは変わらない。
でも、わたしは聖人君子にはなれない。
完璧な力量も技術も心も持ち合わせていない。
そして何より、エネルギーが有限である。
エネルギーの源である、命にも期限がある。
無作為に、それらをばら撒いてはいけなかったのだ。
本当に私が命を差し出して、応援したい人のために
使わなければならなかったのだ。
私が応援出来ない人には、他の誰かがきっと味方する。
最初から応援出来ないなら、最初から気を持たせるようなことを言ってはいけなかったのだ。その線引きこそが、本当の誠実さであったのかも知れないのに。
いい人ぶって、結局は自分も人も幸せに出来なかった。
全ての人の力になることは無理だ。
だったらせめて、エネルギーの方向性を定めて
力になれる人に全力を注ごうと思った。
その時に、冒頭の会話に対する違和感への解も得た。
損得勘定の品格
「あの人ってさ、自分にとってメリットがある人としか付き合わないじゃん。それがいやらしいなって思うの。私はそういうの嫌いだから、大勢の中で権力者みたいな人がいたら、みんなその人と仲良くしたがるけれど、そうじゃない、あぶれてしまった人の方へ歩み寄るようにしているの」
そういう人もいるのは事実。でもこの会話に出てくる「あの人」のことは私も勿論知っていて、断じて自身のメリットだけで動くタイプの人ではないから、そういう見解に違和感を覚えた。
私が知っている「あの人」は愛情深い人だ。面倒見もよく、昔は全ての人にエネルギーを分散している様をよく拝見した。もちろん誰からも好かれ、誰からも尊敬されていた。
けれどある時、「あの人」が自分のミッションに目覚めた。そして途方もないくらい大きなビジョンを描いた。自分の人生を賭しても、叶わないくらい長い歳月が必要な大きなビジョンだとはたから見ていても分かるくらい、壮大なものであった。
たぶん、その大きなミッションを受け、壮大なビジョンを叶えるために、今までと同じようなエネルギーの使い方をしていたら遠くまでいけないことが分かったのだと思う。
だから何にエネルギーを向け、何にエネルギーを向けないかをちゃんと選び始めるようになったように見えた。
何かを選ぶということは
何かを選ばない選択をするということで
実は後者の選択を明確にすることが人生においては
とても大切なのだと今更ながらに気が付いたりした。
ミッションとビジョンが明確になった人ほど、そこの選択を最初に余儀なくされる。自分が成すべきものが大きければ大きいほど、自分の力だけではどうにも出来ないから、必ず誰かと組む必要がある。その場合、ミッションとビジョンとさらにいえばバリューが明確な人ほど、組む相手を選ぶことが上手だなと感じる。
その選び方のポイントが仕事や人間関係がうまく行くか、行かないかを決めているように思う。
上手くいく人はまず
「この人と組んだことで自分がどれだけ相手に貢献できるか」
これをとても考えている。自分の力でどれくらいお役に立てるか、それをすることでこの人にどれだけ利益を生み出せるか、その為に何が出来るかをちゃんと考えている。ついでに言うと、相手のミッションやビジョンにちゃんと共感している。同じ夢を見る仲間として協働しているのだ。
そして間違いなくこういう人は、「相手を先に勝たせている」なと感じる。簡単に言えば自分にもメリットがあるようにしておくけれど、それ以上に相手にメリットを与えられるような働きを先に提供している。まさにWIN-WINの関係を作れる人だ。当たり前だけど、自分の夢に共感してくれて、一生懸命力を貸してくれる人って、好きになるしこちらも力になりたくる。
でもこれは自分の経験も踏まえ、ついでに色々なセッションをしてきた中で「この人才能も能力も高くて性格も悪くないのに、伸び悩むな」という人は、総じてこれの逆を行く。
自分のことしか考えていないのだ。
この人のことは好きじゃないし、やってることににも全く理解も共感も出来ないけれど、この人が持っている人脈や能力はとても魅力的。だったらここは協働関係を作っておいて、その人脈や能力を確保しよう。
そういう考え方の人はだいたい、いいように使われて終わっている印象を受ける。でもそこで被害者意識をもってはいけない、先に相手を利用しようとしたのは自分の方なのだから。同じ扱いを受けたというだけの話である。
そもそも信頼関係がないから、簡単に崩れやすかったりする。でもこれが悪いとは思わない。こういう損得勘定で動くことは別に悪くないのだけど、やるならとことんやった方がいいよといつも言う。
そんなに興味がない相手と組んでまでして、得たい人脈や才能を使って、あなたは何を叶えたいのだろう?その夢は社会にどんな貢献をもたらし、あなたの人生をどう豊かにしてくれるのだろう?
そこが明確になっていないなら、安易に使っていい方法ではないなと思う。逆に言えばそこが明確で、得たい結果のためになら手段は問わない人を何名か知っているけれど、いっそ潔くてかっこいいなとも思った。たとえ私利私欲のためでも、それを叶えるためにその人は全力で協働関係者を勝たせるようにまい進するから。
いずれにせよ、「相手を勝たせる」「相手に貢献する」つもりがなければ損得勘定なんてうまく行かない。損得勘定にだって品格がある。
私が思う計算高い人というのは、ちゃんと品格がある。
誰と夢を見たいのか、その為に自分が相手にしてあげられる事は何か、相手にしてもらえたら嬉しいことは何か。
そこがハッキリしている上で全力で貢献している人。そういう人が結局のところ、「気持ちのいい人」だなぁとしみじみ思う。
誰かが批判した「あの人」はそういう選択肢の元、今日も一生懸命生きている。批判するのは構わないけれど、個人的にはその人のバックボーンを知りもせず表面印象だけで薄っぺらい理論展開をされることがつまらないなぁと思う。
そしてその人が言っていた、「あぶれてしまった人に歩み寄る」というのが、その人にとってしたいことだったらそれでいいと思う。そもそも私は「人脈」とか「コネクション」という言葉がどうにも苦手なので、自分が好きな人間関係が構築できれば、そこに肩書も年齢もなにも関係ないと思う。その人たちと関わることに喜びがあるならそれでいいんだ。
でも万が一、義務感や「かわいそう」みたいな感情からの行動であったら、一度考えて欲しい。あなたのエネルギーの向け先、それでOK?辛くなってない?ちゃんと楽しい?その人のこと好き??
年末にこんな重たい文章を書く自分はどうかしてるぜと思いながらも、書かなければ一歩進めないような感じがして書きました。
大いなる自戒の念を込めて。
そして私の物語が誰かのなにかになったら嬉しいです。
超長文、最後までお読みいただきありがとうございました!