ナカザワメグミ ドットコム

ナカザワの頭と心を大公開。魂ぶるぶる言わせたろか

ブログタイトル変更した件

今年もあっという間に1年が終わろうとしている。

ついこの間まで1月だったのにもう12月。

歳を重ねると時間が過ぎるのが早い気がする。

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お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが

ブログタイトルを変更しました。

 

当初「失敗するから人生おもろい」というタイトルで、たまに読んでくださる方から「そんなに赤裸々に自分のこと書いていて心配になる」と言われることもしばしばあるくらい(といっても、どう心配になるのかよく分からないで今に至るが)、とにかく包み隠さず、自分の感じたことに言葉を与えて、好き勝手に表現してきました。

 

 

その中でどんどん、自分の過去が癒えていくような不思議な感覚があったんですね。また、全然知らない方がこのブログを読んで「まるで私の心がそのまま書かれているようだった」と、こんなブログを見て「泣いた」と仰って下さる方まで出てきて、自分の苦しみを解決に導いてきた過程を鮮明に書くことで、自分が癒え、図らずも誰かの心に添えたことは、想像以上にわたしにカタルシスをもたらしました。

 

ひとつ、旅が終わった。

そんな感覚が夏の終わりに訪れました。

 

今までの私の人生は、簡単に言ってしまえば「自分とは何者か」を探すために生きて来たといっても過言ではありませんでした。

 

なぜ生まれてきたのか

なぜ生きるのか

そしてどうしてこんなに生きることは苦しくて

この苦しみから脱する方法はないのか

 

なんだかそんなことを解明するために、人生の全てを捧げて来たようなものだったんですね。人生最大の夢は「平穏に生きる事」「普通になること」だったので、とてもじゃないけれど大きな夢なんて見たことがありませんでした。

 

自分のことで精いっぱい。

自分のことが最大の関心ごと。

 

関心や興味の矢印がつねに自分の方へと向けられて生きてきました。

 

そこに突如訪れたカタルシス。

突如と書いたけれど、本当は長い歳月をかけてゆっくりとコップに水を満たしてきたものが、ある日急に溢れた、と言った方が適切かも知れません。

 

そしたら「失敗するから人生おもろい」というタイトルに猛烈な違和感が生じました。

「あれ?わたし、失敗なんかしてない」

 

そんな風に自分の人生を思うようになったのです。

様々なことに挑戦してきたつもりです。そして挑戦すると、もれなく上手く行かない結果にぶち当たります。それにギャン泣きしながら前に進んで来ましたが、私自身その「うまく行かなかった」という経験に対して「失敗した」という認識はなかったなぁとふと思ったんですね。

 

思い通りではなかった。ただそれだけ。

 

でもそこで立ち止まった記憶はなく、じゃあ次はどうすればいいかな?ということを常に考えて動き続けて来られた「原動力」になってくれたなぁと思うんです。「失敗」という言葉の響きと言うか、イメージが自分と合わなくなってきた。

 

思い通りに行かないことがあるから、人は工夫します。だから人生がおもしろくなるんだよ、という想いは今も変わっていませんが、どうもタイトルがしっくりこない。

 

それに、書きたい劣等エピソードもほぼ尽きてしまった。

猛烈に悩み苦しんで来た

 

なぜ生まれてきたのか

なぜ生きるのか

そしてどうしてこんなに生きることは苦しくて

この苦しみから脱する方法はないのか

 

それに対する解も得てしまった。

 

なぜ生まれて来たのか。

「もう本当にたまたまです。」とも言えるし、

「人生を経験するために生まれて来た」とも言える。

どちらが正解ではなく、どちらも正解でどちらも間違っているかも知れない。

 

 

なぜ生きるのか。

「心臓が動いているから」とも言えるし

「生きることが目的そのものだから」とも言える。

どちらも正解で、どちらも間違っているかも知れない。

 

そう、「正解」も「間違い」もないんだ。

ただ、在るだけとでも言えばいいのだろうか。

 

ただ、そういうものだからこそ

人は自分で自分の人生に意味を与えることが出来る。

使命は自分で自分に与えてあげられる。

感情も、行動も、選択する自由がある。

 

 

最初から意味を持って存在しているわけじゃないから

後付けで意味なんていくらでも与えてあげられる。

出来れば、自分が楽しくなるような

燃えるような、命を最大限に輝かせるような

 

そんな素敵な「意味付け」の自由を全ての人が持っている。

「使命」すら人から、ましてや神から与えられるものではないと悟った。

「使命」も自分で自分に与えてあげるんだよね。

 

 

この歳になってやっとそんなことに気が付いたら

ビクトールフランクルの言っていたことが全部腑に落ちた。

 

我々が人生の意味を問うてはなりません。

我々は人生に問われている立場であり

我々が人生の答えを出さなければならないのです。

 

祝福しなさい

その運命を。

信じなさい

その意味を。

 

自分に向いていた矢印が、世界に向きだした瞬間だった。

ああ、人生はこんなにも素晴らしいのかと感動で震えた。

 

 

正直に言うと、「使命」なんてなくても生きていける。

そして今まではそういう人たちに向けて発信をしてきたように思う。

気負わなくていいよ、生きてるだけで充分立派だよと。

 

 

その想いは今も変わらないけれど

わたしはやっぱり「使命」を掴もうとする人に心の矢印を向けたい。

使命を掴もうとしている人というのは

自分を最大限に活かすにはどうしたらいいか、真剣に模索している人。

悩んでいる人ではない、模索だ。

探して、行動して、苦しみの中、歩みを止めない人だ。

そして自分を信じている人だ。

 

 

そういう人に向かって、私は命を差し出したいなと思った。

 

人間「使命」がなくても生きていけるし

本当に社会システム上において、生きているだけで誰かの役に立っているというのは綺麗ごとでもなんでもなく、本当にその通りで、あなたが生きているだけで無自覚でも社会貢献は果たしまくっているのだ。それはもう揺るぎのない事実で。

 

でもその「貢献」を意識的にやろうとしている人たちが

「使命を掴もうとしている人たち」だと私は考えている。

 

自分もそうだからだと思う。

そうやって生きて来たからこそ

そうやって生きる人たちに捧げたいと思う。

 

熱量と時間を。命そのものを。

 

そう思った時に、なんとなく自分の名前をそのままタイトルにした方がいいだろうと思えた。なんか自分の全部を使って書いてますという感じがしていいと思った。ついでに画数が良かったのも理由の一つ。どうせなら良い画数がいい。

 

そんな感じで、今後は矢印を外に向けて

発信していきたいと思う。

 

こんなこと今までおこがましくて言えなかったけれど

誰かの勇気に変わる文章を届けたいと思っていますので

今後とも宜しくお願いいたします!