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ナカザワの頭と心を大公開。魂ぶるぶる言わせたろか

旅の果てに

27日にふと「長野の諏訪に行こう」と思った。温泉に入りたいと思った時に、様々な選択肢が出た中で、一番体が喜んだのが「諏訪」だったからだ。とはいえ、自宅から200キロほど離れている。車で約3時間20分くらいはかかる。頑張れば日帰りも可能だが、体の疲労を考えると宿泊が無難だ。お金がもったいない気もしたし、何より前日に源泉かけ流しの温泉宿で一名が泊まれてリーズナブルな価格で立地が良い場所なんて空いているわけがない、ゆうてもまだ夏休みである。一応調べてみたら、全ての条件を満たす宿がたった一部屋だけ空いていた。ああこれは行けってことだなと思い、従った。ちなみに思考は本気で嫌がっていた。

 

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そりゃ普通に考えてイヤである。地元にも隣の県にも死ぬほど温泉は湧いているし、長野だって諏訪まで行かなくても温泉は腐るほどある。何が楽しくて一人で3時間20分も土地勘がまるでない場所へ車を転がしていかなければならないのか、思考はヤダヤダめんどくさいとすごく駄々を捏ねていた。

 

しかも出発日の28日は朝から大雨が降っていた。これを理由に行かないことも出来ると思い、すごく駄々を捏ねたが、体は黙って駄々を受け入れた後に一言「行く」と言ったのでもう降参して行くことにした。雨は行動停止の理由にならないことを知った。

 

あとはもう一つ、温泉以外にも目的があった。以前から森に住みたいと思っており、具体的な候補地を探し続けていた。分かったのは、北関東と東北ではないということだった。自分がその後に済むことになる土地というのは、一歩足を踏み入れたら分かるものだ。私の場合は空気の匂いで歓迎されているかどうかが分かる。

 

東北の緑と水源豊かな清らかな空気は、今思い出しても胸に清涼感溢れる風がヒュッと吹くような、涙が出るほど美しくて気高くて優しい風でいつもわたしを喜ばせてくれた。でもそれはビジターである私に向けられた優しさであったように思う。住まうことを許可されてはいなかったし、町全体に「アナタの居場所はココじゃないよ」と言われているのが良く分かっていた。

 

だから次は長野はどうだろうと考えていた。軽井沢は違う、佐久小諸も違うし、安曇野も違う、長野市も松本も違うし、新潟付近の妙高エリアも違うと分かっていた。そうなると山梨県寄りの諏訪エリアから以西しか残っていない。ちなみに山梨の清里も違う。

 

 

だったら一回、実際に行ってみて住む土地かどうかを確かめに行こうと思った。空気に触れさえすればすぐわかる。妄想していないで、実際に行動しなければ何も始まらない。ここだと分かれば、引っ越しに向けて計画を立てるし、ここじゃなかったらまた一から探せばいい。そんな期待と覚悟を持って行った。

 

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どういうわけか、ナビは長野に入ってすぐに高速を下ろし、全く知らない山へと導いた。山道と言うのは簡単に言うと峠越えである。急傾斜とカーブがずっと連続したと思ったら、山の頂上へ出て、今度は下りのカーブが連続する。おまけに豪雨で視界も悪ければスリップしやすくもなっており、テクニックと経験が求められる局面が山2つ分続いた。対向車も、後続車も、何もなく、土砂降りの山には私しかいなかった。

 

 

この時ほどいろは坂を200回以上運転してきてよかったと思ったことは無かった。集中はするが緊張はなく、そしてもしもの場合に対応する方法はいくらでも知っていた。運が悪ければ死ぬだろうし、良ければ生きるだろう。でもそれは山であるからとかそういうものではなく、人生とはいつどこでもそういう局面と共に生があるのだと思ったら笑いが止まらなかった。ああ、今は生きているから楽しいなと。

 

そんな山を1時間半ほど運転してから、ほどなくして諏訪の隣にある茅野市に到着した。多くの車を見た時は少しほっとしたが、もう少したった一人で自然と自分だけの世界を味わいたかった気もした。

 

どうせ諏訪に行くなら諏訪大社へ詣でようと思っていた。日本一の軍神であるタケミナカタノカミにお会いしてみたかったし、この神に嫌われて諏訪移住はあり得ない。諏訪大社は本宮・前宮・春宮・秋宮とあり、場所も点在しているが伊勢神宮のように廻る順番は無い。まずは本宮からご挨拶に行こうと思い、駐車場に降り立った瞬間。

 

 

「ここじゃない!!!」

「ここ絶対に違う!!」

 

という「ココじゃない感」がハンパなかった。空気で分かった。全く歓迎されていない。むしろ帰れコールを感じるレベルである。だが一応ここまで来られた感謝をお伝えし、参拝を済ませおみくじを引いた。

 

中吉であった。中身の内容的には「ここに引っ越してきたらダメだよ」と書いてあったし何よりも、粛々とやるべきことをやんなさいよと書かれていた。早く帰ってやることやれよと言われているようで、着いた瞬間から心細くて帰りたくなったが、めげずに前宮へ移動し参拝をし、おみくじを引いたら次は小吉が出て、内容は「マジ引っ越しやめなーそして粛々とやるべきことやんなぁ」だった。

 

 

もうこの時点でバッキバキに心が折れていた。ちなみに旅先で自分の状態が良いか悪いかは、私の場合話しかけられる人の状態で分かる。一人でいてもよく話しかけられるので誰とも喋らない一人旅と言うものは今までなかったが、大体がものすごい親切な人ばかりであった。だが今回は、なんだかめちゃくちゃガラの悪い感じの人に立て続けに絡まれた。本宮で絡まれ、春宮でも変な人に絡まれた。

 

なるほど、私の状態が極めて良くないことは分かった。もうホテルもキャンセルして料金だけ払って帰ろうかと思った。この土地との相性が芳しくないことはもう分かったし、心も折れているし、もう帰りたいとちょっと泣きそうになった。

 

その時に、ああ疲れているんだなと思った。考えが弱気になったり、悪い方へ行くとき、人は自分が感じている以上に疲れているのだ。この思考のまま帰ってもどうしようもない。そう思いなおし、コンビニでしこたま食料品を買い、ホテルに向かった。温泉に入り、お腹を満たしたら、気持ちが安定した。

 

思考や感情でガチガチになると体も同じくらい固くなる。そういう時は温泉に入ってしまうのが手っ取り早いと個人的には思う。体が緩めば思考が少しゆるみ、隙間が出来る。まずはその隙間を作ることに全力を出した方がいい。

 

そしてイライラする時は寝不足ではないか、お腹が空いていないかを確認する。原始的な生理欲求を満たすと人は正常に作動するから割と単純だったりする。かくいう私も温泉に入り、ご飯を食べて、30分ほどお昼寝をしたらすっかり落ち着いた。先ほどより諏訪になじんでいる自分がそこにはいた。

 

ちなみに温泉は強烈に思考が凝り固まって身動きが取れない人や、五感が閉じるほどに疲労困憊な人には強酸性の温泉を薦めている。荒治療だが、緩むのに手っ取り早い。でもそこまでではない人には、アルカリ性の単純泉をおススメする。諏訪の温泉はこれにあたり、肌触りが優しいお湯だが神経痛によく効く、とてもいい泉質だった。

 

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その後は持ってきた本を読み、自分の中に起きる感情と思考を、ホテルの窓から見える雲の流れを見ながら、浮かんでは消えるそれらの流れをただただ観察し続けた。諏訪は標高が高い。多分、700~800メートルくらいある。だから雲が近い街だと思った。

 

ああ、こういう時は空が近いというのか。雲が近いという表現は普通しない。でも私にとっては雲が近いという表現の方がぴったり来る街だった。そんなことを考えながら、わたしは一人でいるのが得意だなと思った。自分の思考や感情と常にお話をしているから、他者が要らない。話が通じない他者なら話したくないし、最近はストレスが無く話が出来る他者が2人しかいない。思い出したらY嬢と喋りたいなとふと思い連絡してみたら、時間を取ってくれた。

 

 

Y嬢は公開されたおっさんずラブの話をずっとしていた。わたしは瞬間的に何かを好きになることはあっても、秒で興味が移るので、何かにハマったり追いかけたりすることは無い。好きな歌手もいないし、偶像も追いかけたことが無い。さらに言えば観光地や展示会・博覧会や各種イベントにもまるで興味が沸かない。だから誘われたりするととても困るのだが、そういうことが好きな人たちのことは否定するつもりは全くない。

 

 

自分にそういう感覚がないので、共感も同調もしてあげられないが、ただ、何か好きなものがあってそれに夢中になって楽しそうに生きている様はとても素敵だなと思うし、自分にないからこそ羨ましいなとも思う。人が楽しそうに好きなものについて語る様子を見るのも聞くのも好きだ。ただ強要したり、誘ってきたり、感覚の共有を求めてくる人は嫌いだ。Y嬢はそういうことはせず、ただただ好きなことを好きなように語っていて、こちらの疑問にも真剣に答えてくれるから好きだ。見ていてとても楽しそうにしているので、こちらも楽しくなる。

 

 

私は「最近、日本語の意味が分からないことがある」という悩みを相談した。メッセージやコメントを貰っても、日本語だから読めるのだが、何を言わんとしているのか意味が分からないことが最近多くなってきて、どう返信すればいいか分からなくなる。だから最近はやり取りに神経を使うことが増えたので、やり取り自体が非常に面倒くさい。

 

 

Y嬢曰く「あなたが分からない日本語は『自分語り』をしている人の文章だからだよ」と。確かにそうだ、と納得した。私の文章を読んで何かを思うの自由だし、それを表現するのは構わない。でもそれが、「私に伝えたいこと」ではない場合、多くは詩的になったり自己陶酔の文章になる。「相手に伝える」という矢印が他者に向いていない文章ほど何を言っているのか分からないものはないし、それを自分の庭でやられることへの不快感と言えばこの上ない。

 

 

語りたいことがあるなら、表現したいことがあれば自分の庭でやればいいのにといつも思う。なぜ人の庭でやるのか。それは承認欲求を満たすためだ。わたしは他者の承認欲求は満たさないと決めている。依存させれば、その人たちは私に沢山お金を払ってくれるだろう。でもそういう仕事はしたくないし、何より自分の時間と体力を他者の承認欲求に捧げる趣味が一切ない。寄り添いたいとも思わない。そういうことは他にやってくれる人がいるから、その人たちを頼ればいい。わたしはやりたくないし、出来ない。

 

 

ただし、自分で自分を見つめ、常に自己研鑽を続けている人たちは大好きだ。そういう人たちは私をちゃんと有料で使い、疲れちゃった時に「褒めて欲しい、慰めて欲しい」とダイレクトにちゃんと甘える素直さを持っている。ひねくれていない承認欲求は可愛いなと思う。簡単に満たされるし、それをエネルギーに変えてすぐ行動に移すから。

 

そんな話をお互いにしながら夜も更けたので、就寝した。長距離運転、諏訪大社の洗礼、温泉、満腹、読書、自分との対話、人との会話…色々あってさすがに疲れたのかあっという間に深い眠りに落ちて行った。

 

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朝起きた瞬間、「今日、諏訪大社の秋宮に行ったら凶を引く気がする」と思いながら起きた。全く持っておかしな目覚めであるが、準備をして朝食を取って、ホテルから15分ほどの秋宮へ向かった。

 

本宮の荘厳な雰囲気もすごかったが、秋宮は秋宮で非常に雅で格式が高く圧もハンパなかったが、やはりおみくじは凶だった。ダメ押しのように「謹んで粛々とやることやんなさいよー転居ダメ絶対だよー」と書いてあり、もう諏訪大社とお話しすることは何もないと思い、春宮には寄らず、また違う山のルートで峠を越えながら岐路についた。

 

 

立科あたりに差し掛かった時だろうか。ふと、私の旅とはなんとも他者からしたらつまらないものだろうと思った。いわゆる観光に全く興味がない。今回は諏訪大社に行ったが、神社が目的の旅でなければ、神社さんには寄らないし、景色を見たいとか、何かを体験したいとか、博物館やら水族館やらにも興味がなければ、建物にも興味がない。温泉が目的でなければ日帰り温泉にも入らない。

 

一人旅に行けば、いつもホテルにこもっている。ご飯を食べる時だけ外に出て、あとはコーヒーを飲んでお土産を買うだけで充分満足する。アクティブな同行者がいると吐きそうになる。家でも旅でものんびりしていたい。

 

一体なにが楽しくていつも旅をするのだろうと考えた時、ひとつはその土地の空気を嗅ぐことと、もう一つは一人になれることが楽しくてやっているのだと気が付いた。一人になって自分の心ととことん向き合い、心が言う事に耳を傾けるのが好きなのだ。

 

そういう時、わたしは一人であって一人ではない。私には私がいる。そう思うとこの先誰も友人がいなくなっても生きていけるなと思ったりしていた矢先に、ふとこんな疑問が浮かんできた。

 

心の声が私なのか、それと思考の声が私なのか、どちらも私だが、じゃあ、その二つを俯瞰しているこの「わたし」は一体なんなのだろうと。

 

「わたし」とは何をもってして「わたし」なのか。思考なのか感情なのか、肉体なのか魂なのか、それら全てだとしたら、どうしてこんなに実体が掴めずコントロール感が持てないのか。私はわたしのものなのに。

 

「わたしってなんだ」と思った瞬間、全ての感覚が抜け落ちた。その時に気が付いた、「ああ自分なんてものは無いのだ」と。「わたしなんて者はいないのだ」と。ただ命があるし、命が生きている。それだけだった。他者も、植物も、同じものなのだと知った。

 

 

まずい、と思った。これ、現実に帰ってこられなくなって、仙人とか浮世離れした人みたいになるパターンの気づきだと非常に焦った。でももうそうなったら、そうなったでいいかなと思った。気がふれてしまったようになっても、現実に戻って来られなくても、それはそれだなと。起こるすべてのことに身を任せ、そしてそれらに対処していこうと思った。ただ、早く家に帰って読みたい本があった。たぶん、昔読んで意味が分からなかった本が、今なら理解できると思ったから。

 

 

家に帰り、すぐに本を開いた。「唯識論」の本だ。これを買った時は頭で理解しようと必死だったが、理解には及ばなかった。だが今は言っている意味がすんなり簡単に入ってくる。ああ、そうか、そうかと。気づいて、また戻って生きればいいんですねと。色即是空・空即是色ってすごい言葉だった。気づいたレベルの凡人と、悟った人ブッダとのとんでもない差が分かった。

 

 

自己の喪失、自己の不在、自我の崩壊、色々な言い方が出来るけれど、それに気づくくらいまでには自分の変化がここ最近は顕著だったのだなと理解した。もう今まで楽しく一緒にすごしてきたはずの人たちの日本語が分からななくなるレベルではあったのは、それはもう仕方のないことだと思った。

 

そして承認欲求になんの意味もないことも急に理解した。認めてもらわなければ存在が不安になる自分なんてどこにも存在していないのに。雑だが、ただ生かされているのだから、めいいっぱい人生楽しんだらいいのだと思った。何をどうしたって起こることは起こるし、起こらないことは起こらないのだ。ただ全てが目の前に現れていくだけだ。

 

 

とはいえ、わたしもまだ全くなじんでいない。衝撃が強すぎて、帰って来てから丸一日は口がきけなくなったほどだ。過去も現在も未来もなく、いまここだよ。いまここって言うのはタイムライン上の今でもないし、固定されたものでもないよということがやっと「わかった」だけであって、それを「生きる」ことにはまだ慣れていない。それはこれから取り組む課題だと思っている。

 

 

たった一泊二日旅に出ただけで、もう出発前の自分とは違う。こういう結果を求めて旅をしたわけではないのに、こうなった。誰に理解されなくてもいい。自分の感じたこと考えをより濃く強く、今後も書いて行こうと思う。