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自分にとって怖い方を選択する

自分の人生を変えたいと言うのはとても簡単で、言葉だけならだれでも言える。でも本気で変えようとしたとき、そこには「いままでやったことが無いことをする」という通過儀礼がある。なんでもいいから違うことを選択しないと、変化というものは訪れないものだ。

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 怖い方を選択するようにしている

 

先に言っておくと、全員にとっていい手段とは限らないことを断言しておくが、わたしの場合、ちょっと今までの流れに違和感を持ち、軌道変更をして人生を変えたいなと思ったら、なるべく自分が持つ選択肢の中で最も怖いことをしてみるか、もしくは他者からアドバイスをされて「それは嫌だ」と思いながらも惹かれるものを選択するようにしている。

 

 

その選択の方が想像を絶する世界に連れて行ってくれるからだ。そしてやる前に覚悟していた恐怖はほとんどないが、行動に伴う痛みは覚悟を超える。現実の前に事前の覚悟なんて本当になんの役にも立たないくらい、想像以上に痛かったりする。

 

 

人は行動している最中というのは恐怖が薄くなるし、痛みに対しても「痛い痛い!」と泣いても立ち止まってる暇がないので、やり過ごせてしまう。そして少しパンチドランカーみたいな感じになり、殴られ慣れてくる。超痛くても。

 

 

最近一番怖かった選択と言えば、このブログで自己開示を始めたことだと思う。なぜそんなことをしたのかというと、今までの自分の生き方では、人生積んでしまったからだ。積んだからには大幅に舵を切る以外の戦略は残されていなかった。

 

 

嫌われることを選択した

 

私のもっとも恐れていたことは、人から嫌われることであった。冗談ではなく、人から嫌われたら生きていけないと思い込んでいたので、自分が嫌いな人にさえ嫌われるのが怖くて、相手の懐に入り込む努力をしていた。努力が実り、嫌いな人からの好意を勝ち取っても、喜びはなく息苦しさと、それでも自分は人に嫌われていないという、いびつな安堵感がだけが残った。

 

 

でもその安堵感は決してわたしを幸せにはしてくれなかった。沢山の努力をして、人に迎合しまくって、機嫌を取りまくって、相手が欲しいリアクションとキャラクターを瞬時に理解して提供して得たその好感度は、キャラを演じ続けなければいけないプレッシャーと常に隣り合わせであった。中には、そのキャラを演じ続けられる猛者もいるが、わたしにそこまでの胆力はなかった。限界だった。

 

 

本当はかなり好き嫌いも激しく、一人でいる時間を多く取らないと心身ともにやられる内向型人間で、誰にでも優しく出来るほど親切でも社交的でもない。多くの話はつまらなく感じ、興味がとても狭い。とても万人受けするタイプではないこの本性を出してしまったら、今まで努力して培ってきた人間関係のほとんどを失うだろうと思うと、怖くて怖くてどうしようもなかった。

 

でも、いつでも明るくてみんなを喜ばせるキャラを演じ続けることも限界だった。ああ、これが八方塞がり、前門の虎、後門の狼という状態なのだなと辟易した。どちらを選んでも「不快」なのである。ならば、「快」に変わる可能性が高い「不快」に飛び込む以外、突破口はなかった。いい人キャラをドロップアウトする、本性を出す。

 

 

大げさに聞こえるかもしれないが、幼少の頃よりずっと人の顔色を窺って生きてきたわたしには、一世一代の選択だった。誰のためにも生きない、自分のために生きる。そんな自分でも受け入れてくれる世界があることを信じたかったし、何より自分自身に「このままでも愛される」ということを体感させてあげたかった。

 

 

生きる喜びを得るために

自ら嫌われに行く。そのために書き始めた。

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やってみて感じたこと

 

今までみんなが喜びそうな面白いネタ、熱いネタばかりを提供していた人間が「ご乱心か!」と思うような激しい文章を書き始めたらどうなるか。当然ある程度の予想はついていた。まずは、30記事を書くまでに、だいぶ読んでくれる人も友達も減るだろうと予測していたが、本当に日に日にFacebookなんて友達がいなくなって行くからすごい。でもいいのだ。

 

誰の機嫌も取らないと決めて書いている。嫌だと思って離れてくれるのは本当に有難かった。だってその人は本来の私とは合わない人だから、それがお互いに分かって、お互いのフィールドで干渉しないように生きられる平和といったらない。

 

とはいえ、最初は減少していく数字が気になった。そして変なコメントやメッセージにも神経をとがらせて、一喜一憂していた。毎日吐きそうになりながらブログを書いていたが、そういう苦痛の中で一筋の光明が見えた。

 

今までと変わらず共に居てくれる人が誰なのかが分かった事と、本性を出したことによって「面白いじゃん」と今まで付き合いのなかった方との縁が出来たことだ。こちらの「快」の方が遥かに得るものとして大きかった。

 

 

書けば書くほど、今まで薄っぺらくつながっていた人間関係が露見し、そこから崩壊していった。まるで厚塗りの化粧がどんどん剥がされて行き、すっぴんの造形に嫌悪した人たちが離れて行くような感覚は、不思議と「痛み」ももちろんあったが、それ以上に「快感」が勝った。いいぞ、もっと離れろ、本来は共にあるべき人種ではなかったのだと。お互いのために、巣穴を間違ってはいけない。

 

 

そうこうしているうちに、どんどん私の周りは人がいなくなり、その代わり「この人たちに向けて発信を続けたらいいのだ」と思う人たちだけがやっと残った。そぎ落としが完了するまでに30記事を要した。でも本当にやった甲斐があった。

 

ブログをほぼ毎日書くようになってから、遥かに人生を生きるのが楽になった。まず発信内容と、実際のわたしとの差がないので、初対面の方や、私のことを良く知らない方との会話にも一切の気負いがない。いい人でにこやかでいなきゃ、盛り上げなきゃと、変に気を遣わず、ナチュラルでいられ、この状態で仕事が出来るのは非常に有難い。

 

 

そしてひと記事書くごとに、なんだか今まで言えなかった秘め事を解放し、荷が下りる気分を毎回味わっている。誰にも隠し事をしていないという生き方は、人を緩める。そうやって肚にため込まないでいると、自然と食べる量が減った。食べ物を食べ過ぎるのも、食べなさ過ぎる時も、人は本来の自分から離れているのかもしれないと思った。

 

 

ずっとパソコンの前にいて文字を打っていると頭ばかり使うので、自然と体を動かしたくなり、外に歩きに行く時間が増えた。するとちゃんと疲れて、ちゃんと夜眠れるようになり、朝目覚ましが無くても6時台には起きられるようになり、午前中に使える時間が増えた。

 

前は明け方まで眠れないほど、睡眠リズムが乱れており、昼近くになってやっと起きるような生活だったのに。人間変わるものである。

 

怖いものを選択した結果、どんどん本来の自分に戻り、どんどん楽になっていった。本来のわたしはだいぶクセが強いにも関わらず、それを面白がってくれ、なおかつ言語レベルも知性も高めの、まさに私好みの人ばかりが周りにいる。

 

 

幸せになりたくて、人に嫌われたくなくてあんなに頑張っていた時には、決して得ることが出来なかった穏やかな幸せを、クズやポンコツをさらすことで手に入れることが出来たのだから、本当に人生とは自分からズレてはいけないのだと身をもって知った。

 

 

怖い方を選択し、本当に良かったと思っている。

本来の自分にもどる勇気なら、持った方がいいと推奨する。

それは怖いけど、いいことしか起きないから。