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恩に縛られないために覚えておきたいこと

急な話だが、私は「恩」というものを良くも悪くも大事にしすぎる性質だ。なんでも「過ぎる」ことは良くないと中田英寿が言っていたし、過ぎたるは猶及ばざるが如しという言葉もある。今日の記事は「恩」にとらわれ過ぎて、身動きが取れない方に贈りたい。

 

本当の「恩」と「恩売り」「恩買い」の関係

自分に何か良くしてくれた一つ一つを忘れずに感謝をすることはすごく大事だけど、「昔お世話になったから」という理由で、今なお恩を受けた人の言うことや要求を聞き続けたり、その人の役に立ち続けようとする人がいる。かくいう私もそういう人間だった。

 

別にお互いの関係の中に信頼と尊重があって、一緒に事を成すことが楽しかったり喜びに満ちている間は全く問題がないのだ。そういう時期は大いに共に過ごす時間を楽しめばいい。

 

ただ、人間というのは変わっていないようで、毎日変わっていく生き物だ。お互いに違う環境を生き、違う相手と話し、違う世界を見ていたら、当然インプットするものが違うのだから、少しずつ考え方も変わり、考え方が変われば発言だって変わるし、物の見方だって変わる。

 

 

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雨のオダマキは晴れと違ってまたキレイ

 

それはお互い様だ。自分も毎日変化していて、相手もまた、毎日変化している。だから一緒にいて楽しい時期があったのに、何故かある時からだんだん、一緒にいても違和感を感じたりする。それは「なんか楽しくない」だったり「なんかイラっとする」だったりとにかく色々と今までに感じたことのないモヤモヤが押し寄せる。

 

 

そんな時は「お互いに感覚が変わったのだ」という大切なサインだ。ともに過ごすには、今までのような距離感ではいられなくなる。改めて、お付き合いを続けたいほど好意があるなら、お互いを信頼・尊重出来る距離感を取った方がいいし、もし好意が消失したら、速やかに離れたらいい。一緒にいる時期が過ぎ、お互い別の「自分の道」を歩み出した、ただそれだけのことなのだから。

 

 

 

ここでこじれるのが「恩があるから裏切れない」と言って、すでに気持ちも考えもその人から離れているのに、その人と共にあり続けることだ。それの何がいけないかと言うと、「自分を信じていない」ということだ。確かに恩を受けた時は、それに救われ、助けられるほどには、無知だったと思うし非力だったかもしれない。

 

 

でも違和感を感じられるくらいまで自己成長し、望むものや自分の意見を持ったのであれば、それを叶えてあげるのが「人生」というものだろう。人のために生まれてきたわけではない。私たちはまず自分のために生まれてきたし、自分のために生きるのだ。そういう使命を持った者同士、道すがらお互いに助け合ったりして生きているのだ。

 

 

だから恩ある人から沢山の恩恵を頂き、今までがあり、それを手放してしまって果たして自分はやっていけるのだろうか?と思う必要はなく、やっていけるに決まっているんだからとりあえず補助輪なしの自転車に乗るつもりで頑張れ。

 

私は補助輪を外して、自分のコントロールで自転車を乗りこなした日を今でも覚えている。ああ、これからはどこへでも自分の好きなスピードでどんどん行くことが出来るのだ。世界が一気に広がった気がして感動したし、何よりワクワクした。あの感覚と一緒である。

 

 

あとは「嫌われたくない「いい人でいたい」という気持ちも分かるが、その人があなたが自分の力や考えで道を決め、その人から離れる決断をした時に、何を思うかはその人の自由だし、あなたがコントロールできない部分だから、そこへの恐怖は手放そう。

 

 

考えたってしょうがない。嫌われるときは、こちらの意志とは関係なく、あっさり嫌われるものだし、あなたもそうして人を嫌ってきたことがあるはずだから。

 

 

そしてね、ここが大切だなと思うのだけど、あなたが自分から離れても、応援してくれたりそれを尊重し、その成長を喜んでくれる人もいる。そういう人は本当に人徳が高いなぁと思うし、そういう人への恩はこの先抱き続け、「恩送り」という形で受けた恩をほかの誰かに送っていくことが、最大の恩返しになると思う。自己成長、自己実現こそが本当の恩返しになると私は思っている。

 

 

 

でも、仮にあなたが離れたことで、恨み言を言ったり、態度が急変したとしたら、それはもはや「恩」ではなく「恩を売った」ということである。

 

恩の本来の意味合いは「いつくしみ」である。つまり恵みであり、もっと簡単に言えば「自分がやりたいから、やった」というボランティア的行動であり、ボランティアとは私は「困ったときはお互い様」という根底の元やっているものだと考えているので、恩を与えた時点で、それは既に自己完結しているのである。そこに見返りは本来発生しないのだ。

 

 

でもこの世には恩をはき違えて「恩を売る」という巧みな人たちが存在する。自分にとって利用価値があるなら「恩を売る」ことでのちのち自分に有利に働くのを目的として人を助ける人もいる。

 

昔、宇宙の法則を高らかに謳っていた人が「あの人は私がこんなにしてあげたのに、私には何もしてくれない」と言って怒っていた。「ふーん」となんの感情もわかずに聞き流していたが、そのあと

 

「宇宙の法則は『出したものが入ってくる』だから、協力してほしい時は先に協力してあげなきゃじゃない。だから協力してあげたのに、あの人宇宙の原則から外れてるわ」

 

 

と言ったことには耳を疑った。ああ、完全に意味をはき違えているなと。宇宙の法則が確かならば、あなたがしたことは「恩を売った」ということ。もし返ってくるならあなたに「恩を売る」人が現れるだろうと。

 

 

でもそれ以上に、「恩を売った」時のあなたの波動はどんな感じだったのだろうか?きっとイヤらしい気持ちだったのではないだろうか?そしたらイヤらしい気持ちを持った人があなたに近寄って来るでしょうよ、そうやってお互いに利用目的でしかない人間関係が出来るでしょう。ちゃんと目的がありビジネスライクで割り切れるならそれでもいいけど。

 

 

もしあなたの恩人が明らかに「恩を売る」タイプで見返りを求めているのだとしたら、それに縛られる必要はない。勝手に売りつけてきたのだから、料金を払う義務は本来ないのだ。

 

そして、その人と離れることを選んで、いい顔をされなかったとしたら、残念だけどそれまでの関係だったということだ。思ったよりは絆は薄かったということだが、こう書くと「恩を受けた人」が被害者のように映るがそれも違う。

 

 

「恩を売った人」も「その恩を受けた人も」完全に利害関係が一致しているのだ。恩を受けた側は、その時自力で立つことが出来ないから、「恩を買った」のだ。

 

恩を買って、助けてもらうことで、自分の現状を打開するためにその人を利用したのだ。だからお互い様なのである。

 

お互いに利用関係にあったら、とりあえずギブ&テイクで1回くらい恩を返してもいいと思う。でも苦しくなったらやり過ぎである。その時はもうその関係から卒業する時が来たよという合図でもある。

 

 

だから「恩を買った側」が恩を裏切れない、でも苦しいと思いながら、相手をだんだん嫌いになって行ったり、自己嫌悪に陥るのは、逃げであり自己憐憫でしかない。ちゃっかり利用しといて、利用されたはないのだ。そこから目を背けずに、ちゃんとそういう自分の至らなさと向き合った上で自立し、今後の人間関係に活かせばいい。

 

 

だから自分自身も人に何かする時は非常に注意している。私の心の指針は相田みつを先生が

 

あんなにしてやったのに

「のに」がつくと

愚痴が出る

 

という言葉を残されていて、いやぁこれは本当にそうだなぁと、我が家のトイレにある日めくり相田みつをカレンダーでこの言葉を見るたびに身が引き締まる。「のに」がつくくらい人に尽くす時、それは「やり過ぎ」なのだ。やり過ぎな時というのは、自分が我慢や無理をして相手に奉公しているときだ。これが「恩を売る」だと思っているし、「のに」が付いたことは愚痴になり、「恩を仇で返された」と恨みに変わる。

 

相田みつを作品集トイレ用日めくりひとりしずか 1 ([実用品])

相田みつを作品集トイレ用日めくりひとりしずか 1 ([実用品])

 

 

だから「のに」が付かない程度で、相手のお役に立てそうなことをするようにし、したことは「させていただいた」ことですでに完結するように努めている。すると自分が恩を売ることもしないで済むし、恩を売る目的の人も見抜けるようになるから、そもそも恩を買わずに「お気持ちだけで。ありがとう」と言ってお断り出来るようになった。

 

最後に:なぜこれを書こうと思ったか

 

私自身、恩に縛られて身動きがとれなくなっていた時期が長かった。そんな自分の現状を見て、周りの人たちが「もう恩返しは十分してるから、もっと自分の自由意思を尊重していいんだよ」と言ってくれた。そしてその人たちは私に「恩義・忠義の人」という純粋なものを見てくれていたように思う。

 

恩を感じ、それに報いようとする姿は確かに美しい。けれど、それをしている私の心はいつも潰れそうなほど苦しく、歪んでいた。

 

 

日に日に、相手の態度が自分を軽んじているように感じて、劣等感や敗北感、屈辱も侮辱も感じていた。そこまで思っているのに、離れらない自分の卑劣さにも耐えがたかった。離れて、自分の道を行けばいいのだ。

 

でもそれを選択できないのは、結局我慢しながらも、その人から受けられる恩恵を手放すことが出来なかったし、何より、離れてしまって自分が上手くいくかどうか分からなかったからだ。共依存関係というものは怖い。

 

 

相手を憎むほどに、自分のエゴを突き付けられる。そのダブルバインドに耐えかねて、一掃しようと昨年の頭からどんどん切った縁があった。自分が引くことで、切れる縁の方が圧倒的に多かった。

 

ああ、利用には利用が返ってくるのだ。利用価値が無くなったら、縁とは簡単に切れるものだなと学んだが、それは自業自得だった。嫌われるという代償により、自分の自由な発想、自由な行動、自由な発言を手に入れた。そしてその世界が想像以上に快適だった。今では感謝しか残っていない。

 

 

今もたまに、「恩を裏切れない」と言って、自分の自由を制限して誰かの配下にいようとする、極めて有能な人の相談に乗ることがある。もう十分恩は返したから、自分の人生を生き、その優秀な能力を使って、どんどん自己表現を楽しみ、社会貢献をしてほしいと思う。

 

あなたは自分が思う以上に優秀だし、もっと違う世界がある。そしてそれを必要としている多くの方が必ずいる。そんなせまい檻の中で飼いならされるタマではないのだ。あなたはいくらでも飛べる。どうか大空に羽ばたいて欲しいという願いを込めて、今日の記事を終わりにします。