昨日「こんな女子はめんどくさい」みたいな記事を書いたら、反響がすごかった。
その反響の中で、1つ非常に興味深い反応を示してくださった方がいた。私はその方とまだ知り合ったばかりでお互い深いことは何も知らないけれど、言葉の端々からあふれる知性と教養がとても美しい方で、1つのことから10拾えるような方である。その方から頂いた反応から、今日はお話を展開していきたいと思います。
こいつなんやねん、を解消しようと思ったきっかけ
前回記事の最後の方に、「この人はもしかするとこういう背景があったから、こんな奇怪な言動を取るのかもしれない」というような私の見解を書いた。そのことに関して、美しい方は「Aさんにはそういう意図があったのですね」と反応をくださいました。
違うの。すべて私の架空の妄想なんです。
でもとっても便利だから、今日はこの話を紹介させて欲しいのです。
元来わたしは白か黒か思考といいますか、物事がはっきりしていないことって理解が出来ないんですよ。グレーゾーンの意味が汲み取れない、まあ頭の固い融通の利かないタイプなんですね。それは正直、たくさんのトレーニングを積んだ今もさほど変わっていないように思います。
だから前までは、この手の「オチのない話をする女子」というのがすさまじく嫌いで、それはもうブチ切れまくっていたんですよ。
「で?オチは?」とか
「今の話のなにが面白いの?」とか
「自慢ですか?」とか
普通にメグミ100%で嫌味を込めて、真顔で睨みつけながら言ってしまっていました。(なんかもう、その時の人たちごめんやでと思う。でもトークはマジでつまらなかったで、と今も思う)
若かったからでは許されないくらい、狭心だったし、何よりも物事を多角的に見る寛容さと柔軟性に欠けていました。だからいっつも他者に対して怒りを覚えていたんです。特にわたし自身が、コミュニケーションとか、会話に関してはすごく努力して喋れるようになったという自負があるからこそ、つまらない話をする人や、コミュ力が低い人って本当に許せなかったんです。※こちらを参照ください↓
踏ん張らないで、ダメになってみる - 失敗するから人生おもろい
面白い話が出来ないなら、喋んな
喋るんだったら、面白い話をしろよ
くだらない話でわたしの時間を奪うんじゃねぇ
本気でそう思っていましたねー。
今振り返ると「ヤダー!!メグたんこわいー♡怒っちゃやだおっ( *´艸`)♡」とか思うんですけど、なんせ本当にクソみたいな人間だったので(今もなw)許せなかったんですよね。で、どんどん相手のことを嫌いになって行くんです。でも人を嫌いになるのって、けっこう疲れるんですよね。ずっとイライラしてなきゃいけないし、嫌いなのにずっと相手のことばかり考えてしまう。
もうエネルギーが続かないんですよ。で、また当時は接客業をしていたので、理不尽極まりないクレーマーと話をしなければいけない場面というのが何度もあって、その人たちにも本当に怒りがすさまじくて、頭の中で何度も「法律で3人まで人を殺していいなら、わたしは今その権利を執行する」って思いながら話していましたね。
ちょっと話は逸れるけど、その当時、大手牛丼チェーンの店長さんが悪質なクレーマーの度重なる執拗な言動に耐えかねて、刃傷沙汰を起こしたという事件があり、その記事を泣きながら読んだのをよく覚えています。
本当に本当に本当に、耐えられないほどの苦痛だったのだろうと簡単に拝察でき、「この人はわたしだ」と思いました。わたしもいつか、このままずっとずっと、怒りを抱えながら、それをどうすることも出来ずにいたら、何かのはずみで理性を超えて、やってしまうかもしれないな。そう思うと自分が怖かった。
この世はバカばっかだな!!!なんであんなにバカなの!!!?っていつも頭の悪そうな、理論的ではない会話をするクレーマーに、クソつまらない会話をへらへらしながら永遠にしゃべり続ける女子どもに、毎日毎日いろんなことに怒りまくっていたら、うつになってしまったんですよね。
で、これはやばいなと思ったんです。
他人を変えることは出来ないから、自分の世の中の見方を変えないと、自分の受け取り方を変えないと、わたしは何度だってうつになってしまうなと。自分を守るために、自分を変える必要があることにここで初めて気が付いたわけです。26歳くらいの時でした。
相手のうしろを考える
で、認知行動療法の本とかを何冊も読んで、1年間自分をモニタリングしながら認知のゆがみを矯正するというのをセルフでやっていくなかで、だんだんと自分の世界の受け取り方が変わっていったんですね。
まず、クソつまらないと思っていた女子の会話を、遮らずに聞いてみようと思ったんですよ。つまんねーなぁ、とは思いながらもうんうんうなずいて聞いていると、なんだかどんどん自分に起きた出来事を、楽しそうに嬉しそうに聞かせてくれるんですよ。
その時にハッとしたんですよね。
わたしにとっては、興味も関心もないことだけど
この子は「これが」楽しくて、うれしいことなのか。
興味と感心って、人によって違うんだ。
この子が見ている世界はこれなのか!!!
と、もう雷に打たれたような衝撃を覚えたんですよ。
本当にたわいもない話だったと思います。昨日はお母さんがコロッケを作ってくれてみんなで取り合いしながら食べたあと、家族でDVDを見たんだ~。みたいな話だったと思うんですね。
でも、わたし、本当に初めて「その子の目線に立って」その子の世界を見た時に
素朴だけど、とても温かくて
愛に溢れた日常を
彼女はこれほどまでに愛しく思い
大切にしているのだ
これが彼女の「世界」なのだ。
そしてその「世界」に興味を示した私に
こんなに嬉しそうに話をしてくれる。
今まであんなにひどい態度を取ってきたのに。
そう理解したときに、涙が出たんですよね。
なんて素敵な人なんだろうと。
それまで「面白いことは刺激的なこと、それ以外はつまらん」と思い、自分の価値観で人をけなしてきた自分を大いに恥じた瞬間でした。オチのある話も出来ない、頭の回転だってお世辞にもいいとは言えない、けど彼女はあたりまえの日常を、大切に味わい人を思いやれる感性豊かな素敵な人だ。認知が劇的に変わった瞬間でした。
その出来事がきっかけで、なぜかクレーム対応が徐々にうまくなっていったのです。おそらく、まったく理解できない相手だと最初からスパッと切らないで、相手の話をちゃんと聞くようになったからだと思います。するとほとんどのクレームは、クレームじゃなかったことに気が付いたんですね。「商品が壊れて悲しかったんだ」「すごく気に入っていたんだ」ということを、分かってほしくて声を荒らげていたのだと分かり
「そうですよね、私がお客様だったら、同じようにお気に入りが壊れたら悲しいです」そう相手の気持ちに沿う一言を伝えると、お客様は一気に態度をほぐしてくださり、スムーズに今後の対応策へ耳を傾けてくださるようになりました。
それでも中には、もう理不尽極まりない、言いがかりに近いような案件もあるのですが、それも本当に怒りと恐怖で震えることはなく、「すん」としながら毅然とした態度で対応出来るようになっていきました。
それは
この人がどうしてこんなに理不尽なことを言う人生になったのか
それを勝手に想像するようになったからです。
多分…すごく会社で嫌な上司とかいて、毎日こき下ろされていて、すっごいフラストレーションがたまっていて、家では奥さんの方が権力があって強く言えなくて、バカにされているんじゃないかという劣等感が爆発して、今ここでこんなにキレてんのかなぁ。だとしたら同情の余地あり。まあ、色々嫌なことがあったんだね。あ、その一端がうちの商品の不具合か☆彡それはごめんなさいだから、ちゃんとやろー。
みたいな感じになっていったんです。
相手のバックボーンを想像すると少し、怒りってゆるむんですよね。想像だからストーリーはなんでもよくて、あくまで自分の気持ちが楽になることが目的で、相手の言動を許すつもりはみじんもないのですが、それでも少し自分にも相手にも寛容になれる。
理解出来ないことに、悩み、苦しむのがあまりにも疲れるけど、なんでも理解したい意欲のある人は考えることを止められないじゃないですか。だったらせめて自分なりの理解や解釈をすることで自分を救う方が健全。だから本当のストーリーなんていらない時もある。
わたしは常時、頭の中に言葉が渦巻いていて、常に何かしらの「問い」を立ててそれに対して「解」を出す、ということを辞められないので、ひとつ「問い」が立ってしまうと、「解」が得られるまでずっとそのことに執着してしまうんですよ。
だから「こいつなんやねん!」みたいな人が現れると、なぜ自分が怒っているのかと、その人の思考回路が知りたくてずっとその人のことを考え続けてしまって、不健康になるので、なるべく執着させないために怒りを緩めるってわたしにとってはすごく大切なんですよね。執着疲れるから。そして早く「解」を出して次のこと考えたい。
で、最後は笑いに持っていきたいんですよ。
笑って終わりに出来るって最高に平和だと思う。
「あのやろー(笑)」みたいな。
笑って赦してあげたいんです。
自分と相手の不完全さを。