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ナカザワの頭と心を大公開。魂ぶるぶる言わせたろか

自分の世界観を知る

愛でた世界はわたしそのもの

「森に住みたい症候群」という持病が時々、猛烈なまでにやってくる。

ほとんど発作のように「森に住みたいイィ!!今すぐ住みたいぃぃぃぃ!!!」という状態に陥り、人間世界から離れたくて仕方がなくなるのだ。

 それが先月くらいから激しくなり、いよいよ呼吸も絶え絶えになった頃、ひとつの妙案が浮かんだ。「そうだ、観葉植物を飼おう」。

 

森にすぐ住むのが無理ならば、家の中に森を作ればいいじゃない。

夢を現実にする第一歩は案外簡単な手法なのかもしれない。思い立ったが吉日、すぐに観葉植物を買いに行き、わたしは水を得た魚のように深い呼吸を取り戻した。

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中澤の森の構成員たち

 彼らを見ていると時間が過ぎるのが早い。

それぞれの植物と会話をして、水を与え、葉水を霧吹きで与え、そよ風に当たりたそうにしていれば窓際に移動させる。手間がかかる、そこが可愛い。

ずっと見ていて飽きが来ない。気が付いたら朝から夕方まで眺めていた日があった。

 

 

来る日も来る日も、飽きもせず、話しかけ、水をやり、日光浴をさせ、ちょっと肥料をあげ、剪定をしていたある日、彼らを見ていてハッとした。

 

彼らは私の人間関係の縮図だ、と。

 

 

人付き合いの世界観が身近なものに出る

一見すると誰とでもすぐに打ち解ける。そのくせ長く付き合う人間関係はじっくりゆっくり育み、少数精鋭を深く愛する。それ以外の人付き合いは、一瞬仲良くなってベクトルが変われば自然消滅する、を繰り返す入れ替え制。

 

それが私の人間関係の構成図だ。

 

家の中に森を作るのであれば、もっと大きな鉢の観葉植物を何体も購入して飼えばいいものの、それをしようとしない自分が不思議でならなかった。

今いるこの子たちで、今は満足。随分と小さな森である。

 

 

だがよく見てみると、鉢植えや水耕栽培で根付いているものが6体、エアープランツが2体、あとは3つの花瓶にその時々の草花を入れている。

まるで前述したわたしの人間関係の構成にそっくりではないか。

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根付く系植物=長く深いお付き合いをしている大事な人たち

エアープランツ=たまに会うだけで何十年も繋がっていられる大事な人たち

花瓶=瞬間的にお付き合いする人たち(または根付く系予備軍)

 

そして人間関係は「狭く深く」の私としては、これが最大キャパなのである。

今はこれ以上増やしてしまうと、全部を大切にすることが難しいから増やさない。

 

それが分かった瞬間、とてもホッとした。

社交的で誰とでもカジュアルに幅広く、軽やかに付き合う人に憧れていた。

彼らのバイタリティと魅力的な人間性は、どうしたら入手可能なのか散々悩んできた。

 

ずっと彼らのようになりたくて、誘いは断らず、片っ端から社交の場に参加し、その場その場を楽しみ、メールの返信や年賀状のやりとりもとても細やかにやっていた。

知り合いは増えていったし、その出会いの中から今も続く大切な人とのご縁も出来た。

 

 

けれどいつも、見えない誰かと繋がっているような緊張の糸が、首に何重にも巻き付いているようで息苦しかった。頑張り続けなければ切れてしまうような、細い人間関係を必死で取り繕うことに、ほとほと疲れと嫌気がさした。

 

そういえばこの頃は部屋も散らかっていた。何を大事にしたいか分からないと、人は物をむやみに増やすのかも知れない。

 

これは自分のスタイルではない。憧れてもそうはなれない自分に劣等感を感じつつも、自分は自分以外の者にはなれないことを知り、糸を少しずつ手放していった。

 

きっと人間関係が得意な社交性の高い人は、たくさんの鉢のお世話が出来るのだろう。

私はそういうタイプではなかった。そのかわり小さく深く大切にする人間なのだと知れた時、心底ホッとした。ああ、これでもう誰にも憧れなくていい。

 

わたしはわたし、あなたはあなた、だと。

 

人付き合いがせまい・苦手なひとは社会でどうすればいいのか

とはいえ、生きていくには外の世界との外交が不可欠である。

自分のパターンを知っただけでは、何も変わらないし、根付く系のお友達とばかり話していればそれは楽しいが、人生はそうもいかない。

お仕事上の人間関係は常に窓の外の世界が舞台なのである。

 

さあどうしよう。と思った。

 

表面上取り繕っても疲れるのは経験済みである。いかに疲れずに、自分をすり減らすことなく外の世界の草花とも友好で有効な人間関係を構築することが出来るだろう。

そう思いながら外の世界をずっと見ていた。

 

たくさんの種類の草花が咲く世界は美しい。それをそのまま尊重すればいいのだと思うに至った。

 

ひとりの人間につき、ひとつの世界があるのだ。この世界はたくさんの世界観を持つ者同士で構成されている。ならば、その「違い」を認めることがまず大事だ。どんなに相容れない世界観が存在しようと、その存在を否定することなく認めればいい。

 

ああ、そういう世界観・価値観なんですね、と。

 

そのうえで適切な距離を取ればいいのだ。たとえどんなに自分が受け入れられない世界観が存在しようとも、そこには必ずその価値観に惹かれて集まる人々が必ずいる。正義も悪もなく、世界観と価値観の違いがある「ただそれだけ」なのだ。

 

全員から好かれる花なんてないし、全員から嫌われる草木もまた、存在しない。

それでも自分の世界を主張し、あの花はおかしい!あの草木が流行っていて好かれるなんてどうかしてる!と思う人は、たぶん優越コンプレックスが強いのだと思う。

 

そんなにトゲトゲしなくても大丈夫。

みんなそれぞれ愚かで高慢で醜くて美しいのが草花だし、人間である。

  

違いを認める、そしてそれを尊重して、相手と接する。

どうしても合わない場合は距離を取る。

これだけで外交はうまくいくのだと改めて腑に落ちた。

 

人付き合いがせまい・苦手な人は、不器用だが優しく、愛情深いのだと思う。

室内の根付く系植物を愛でるように、外の草花にも同じように接することの出来ない自分を薄情だと責めているように見える。

 

そうじゃない、世界は広いのだ。

たくさんの草花が生息し、たくさんの世界観を生きているのだ。

その中で自分の世界観と合わない草花が多い方が当たり前だ。

 

特にせまく、濃く、深い世界観を持つ人ならば尚更である。

 

自分の世界を大切にしつつ、相手の世界も認めてあげられたらいい。

愛せなくても、好きにならなくてもいいから。

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外の世界の草花も、きれい。